ロシア旅行(54)

※ロシア旅行(54)<六日目>-2004.10.1-

小イタリア天窓の間には、点数は少ないがスペインの
画家達の絵画が展示されている。

フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828)

 ベラスケスと共に、スペイン最大の画家である。ベラ
 スケス同様、宮廷画家として重きをなした。 1792
 年、不治の病に冒され聴力を失う。 彼の代表作
 『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『巨人』などは、彼が
 聴力を失った以後の作品である。

 さて、ここに展示してある、『アントニア・サラテの肖
 像』(1811年)は、彼の晩年の作である。 アントニ
 ア嬢は、女優としての才能より、美貌で名高かった
 ようである。 彼女は36歳の若さで、肺結核のため
 死亡したが、ものこの絵が残されていなければ、遠
 の昔に忘れ去られたことであろう。

近くに、同じくスペインの画家、ムリリョの作品が展示
されている。

ムリリョ(1617~1682)

 セビリアに生まれ、10歳ころ孤児となったが、教父
 に養われ早くから芸術教育を受けた。 26歳の時、
 ローマ行きをめざし、先ず、マドリードに出た。同郷
 の先輩ベラスケスから、宮廷所蔵の名画を見せて
 貰い、ティツィアーノ、ルーベンスから深い感銘を受
 け、ローマ行きを断念してセビリアに戻り、ついに生
 涯そこをでることはなかった。

 『犬と少年』(1650年頃)は、彼の初期の作品で、
 ジプシーの子供が奇抜な服装で描かれているが、
 彼等の年齢に特徴的な感情に対する素直さが見
 事に表現されている。

17世紀はスペイン絵画の「黄金時代」と言われてい
るが、その幕を開けたのは、1570年代にスペイン
にやって来た、ギリシャ人の画家エル・グレコであっ
た。

エル・グレコ(1541~1614)

 現ギリシャ領のクレタ島出身の画家。 グレコの名
 はスペイン語で「ギリシャ人」を意味する。 ローマ
 で、ティツィアーノに師事し、ヴェネツィア派の絵画
 を学んだ。 1577年、36歳でスペインのドレドに
 渡り、没するまで宮廷画家として活躍した。

 『使徒ペテロとパウロ』(1587頃)は、最初にトレド
 で制作された、キリストと十二使徒に捧げられたシ
 リーズ・使徒行伝の一作である。 グレコは色彩、
 リズム、動作によって各弟子達を個性的に表現し
 ている。

オランダ絵画の最高峰は、17世紀最大の画家、
レンブラントであろうか。

レンブラント(1606~1669)

 自画像を含め、多くの肖像画を残したことで知ら
 れ、また、聖書に由来する主題をもつ多数の絵画
 や版画も広く親しまれている。

 レンブラントの芸術が、明暗法の決定的、絶対的
 表現を確立したとして、評価されている。

 『フローラに扮したサスキア』(1634年)

  花と庭園の女神の姿で描かれた、レンブラント
  の妻・サスキアの詩情豊かな肖像である。 頭
  には花冠を飾り、彼は明らかに自分の若い妻
  に見惚れている。 彼の幸福だった時代である。

 『ダナエ』(1636年)

  青銅の塔に閉じこめられたダナエを、黄金の雨
  に姿を変えたゼウスが訪れるという物語は、多
  くの画家が描いて来た。 レンブラントは黄金の
  雨を左の戸口から射す光に変えて、神話の場面
  を日常の光景として表した。 

  この作品は、1985年硫酸がかけられ、二ヶ所
  ナイフの傷を受けた。 非常に面倒で入念な修
  復作業は、約12年間続けられた。 再び、目に
  する事が出来、ラッキーであった。

 『放蕩息子の帰還』(1660年代)

  この作品は、レンブラントのいわば、一生の締め
  くくりのようなものである。 晩年の彼は、全く孤独
  で、富も名誉も家族も全てを亡くし、残されたのは
  制作能力のみであった。

  レンブラントの全作品に共通している、愛情、苦悩、
  寛容などの感情がここに集結されている。

  放蕩息子の話は、新約聖書に登場する有名な物語
  である。

『アントニア・サラテの肖像』・ゴヤ

54-01

『犬と少年』・ムリリョ

54-02

54-03

『使徒ペテロとパウロ』・グレコ

54-04

54-05

『フローラに扮したサスキア』・レンブラント

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54-08

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